今日は稽古場に一橋大学の小関先生とそのゼミの生徒さん、そして、Coversation&Companyのプロデューサー前田さんがいらっしゃいました。

小関先生からのコメント。

「初めて稽古の様子を見学し、大いに刺激を受けました。音符一つを突き詰めてゆく姿勢が印象的でした。指示を出す宮城さんの語彙の豊かさは、詩的ですらあります。本番の舞台が楽しみです。」

http://d.hatena.ne.jp/sosu/20051021
に学生さんが今日の稽古場見学について書いてくれた記事があります!

前田さんからのコメント

「これほど生真面目な劇団もなかなかないのではないか。演出家、宮城さんの、決して易しくはない要求に呼応する役者さん達の姿勢にあらためて感服した。長い月日に渡る作業の積み重ねからしか生まれぬコミュニケーション。それから、女優さん達がきれい!」

ありがとうございました。
最近、美しさを保つ秘訣をある女優さんにきいたので、ちかぢかそれをアップいたします♪


今日は、ロハメンバーズの並河さんと、昨年静岡でやった「忠臣蔵」に市民参加されていた青島さんが稽古場にいらっしゃいました。

ロハメンバーズとは?
これは、あなたがク・ナウカFANでしかも30歳以下ならばかなりお得な制度なんですよ!これについては、また詳細をアップしますので、今後もこのブログをよろしく!なんつて。

さて、並河さんは以下のようなコメントを寄せてくれました。

「ど真ん中の席で、しかも、なんだか一人だけ良い素材の椅子に座らせて頂き、恐縮しっ放しでした。稽古は、何から何まで面白く、刺激的。今後の活動に活かしていければと思っています。『間があると、間抜けだ。』と仰っていたのが印象的。本番、楽しみにしております。お邪魔しました。」

こちらこそ、真剣に稽古場を見学されていた並河さんの表情が印象的でした!


「宮城さんの演出とそれを吸収して変化していく役者さんを真近で拝見でき、とても緊張しつつ興奮しました。 また、楽器係の役者さんとコロス的な役割の役者さん達が紡ぎ出す音の重なりが、蜘蛛の巣みたいにまとわりつく感じがして何とも言えない不安な心地よさでした。」

こちらは青島さんのコメントです。緊張感って不安になったり、心地よさになったりして不思議ですね!

これからもどうぞよろしくお願いします。

スクープです!あの美加理さんの、美しさと集中力を高めるための儀式を知ってしまいました!

「寒くなって参りましたね。
疲れた体を癒すには、少しの?お酒とお風呂です。」

微笑む美加理さんは、更に続ける。

「お風呂での読書が何よりのリラックス法です。」

普通じゃん。と思うなかれ。その愛読書とは…

1:はだしのゲン
2:空手バカ一代(自業自得編)
3:鬼平犯科帳

美加理さ〜ん。。。それでリラックスできる意味が全然わかりません!!!帰りがけに中国武術の教室を見つけ、熱心に覗き込んでいたのも不思議でした。

え?全然スクープじゃない?
失礼しました。次こそは!

夢幻能ってどんなもの?(平川)

夢幻能は、前場後場の複式の仕立てで、前場では土地の普通の人と思われていた前ジテがその実は亡霊であって後場で後ジテとしてその正体をあらわす。そして主人公のシテは、その人の人生の危機的な瞬間をワキの旅人(しばしば僧である)が見ている前で再現してみせる。—しかしそうのようにして舞台の上で繰りひろげられたものはすべて旅先でワキが見た一場の夢幻(ゆめまぼろし)かもしれない、ヴィジョンでしかないのかもしれない。大掴みに述べれば、これが夢幻能の構造である、言い換えるとこのヴィジョン・プレイとは、能を現在能と夢幻能に二分類した際の後者の謂いであって、主人公であるシテは亡霊である。主人公が現在の人間である現在能とその点が違う。現在能ではいわゆる直面物(ひためんもの)の能が多く、仮面を用いない。能楽で仮面を用いるのはその人がこの世の人でないからである。夢幻能の特色は、あの世とこの世が橋がかりという装置で通じているところにある。大正三年にあたる1914年、パウンドはこの日本の複式夢幻能を発見したときの驚きをQuarterly Review, XLIV(Oct.1914)に掲げた『日本の古典的演劇』(The Classical Drama of Japan)でこう述べた。

これらの能楽についてもっとも驚嘆すべきことは、その能楽が霊的なるものを完全に驚嘆すべきほど見事に把握していることである。これらの能楽作品は、肉体をまとった人間よりも神話的な人物、というかより有体にいえば亡霊を取り扱っているのである、これらの能楽作品の作者は偉大な心理家である。

ここの演出家は、『語らせたらとまらない』ことでは定評があるやうでございます。
今日は『夢幻能オセローとの出会い』について、語っております。。。

●「夢幻能オセロー」との出会い
 この上演のきっかけは、雑誌「文學界」に載っていた、平川祐弘さんのアーサー・ウェーリー(東洋学者、1889-1966)についての評伝を読んだことでした。このウェーリーという人は、「源氏物語」を英訳したことで有名なんですが、能を英国に紹介した人でもあるんですね。彼は英国人向けに能を紹介する際に、当時ロンドンで上演されていたジョン・ウェブスターの芝居を素材に、これをもし能でやるとこうなる、という風に説明をしました。平川さんはそのウェーリーの例にならって、平川さん流に、皆さんよくご存知の「オセロー」をもし複式夢幻能で構成するとこうなる、ということを書かれたんです。複式夢幻能のシステムを説明するために、よく知られたシェイクスピアの「オセロー」を使った、ということですね。その部分を読んだ時に、僕は実に感銘を受けまして。僕はシェイクスピアの四大悲劇のうち、この「オセロー」に関しては、気になる作品ではあるんだけれども、どうも上演に踏み切れないところがあったんです。というのは、デズデモーナというヒロインがまるで看板に書かれた絵のような、変化しない美しいものとして書かれていて、あまり生き生きしていないように感じたんですね。マクベス夫人やオフィーリアと比べても、どうもデズデモーナは生きていない。あくまでも男から見たマドンナのような、デズデモーナの造形そのものに巨大な弱点があるように思えたんですね。(つづく)