●なぜ能は現代人に「わからない」のか――時間感覚の問題
 もう一つのわからなくなっている理由は、謡(うたい)という母音を伸ばしてしまう手法の問題です。実は、日本語を音楽的に言うための手法としては、「母音を伸ばす」という方法以外ひとつも思いつかれてこなかったんです。日本の芸能で、日本語を音楽的に言うことはもちろん試みられてきているけれども、その総てが、母音を伸ばすという――その伸ばし方によって色々分かれているんだけれど――結局のところすべて母音を伸ばすというやりかたなんですね。母音を伸ばすと、たとえ現代人が知っているふつうの単語でも意味がわからなくなってしまう。そこで、まずその「母音を伸ばす」ということをしないことによって、わかりづらさの半分は消えると思います。母音を伸ばしてしまうと、現代を生きるぼくらと時間感覚があまりにもずれてしまう。人間の移動するスピード、情報が入ってくるスピードが、日本でいえば明治以降、世界的にみれば産業革命以降、途方もなく速くなってしまった。そのために僕らは、身体的なレベルで、我慢することができなくなってしまったんですね。全く言葉に還元できないものなら、例えば夕日をじっと眺めるだとか、鍾乳洞の水滴が落ちるのを聴くだとかいうことなら、古代人と同じように受け止めることができますが、文字に還元できる情報、文字としての意味を持っている情報だと、ある程度以上ゆっくりだともう我慢ができなくて、それを受け止める態勢がなくなってしまうんですね。母音を伸ばすことによって音としてわかりにくくなるだけでなく、ある分量の情報を伝えるのに、ある程度以上の時間をかけてしまうと聞く態勢ではなくなってしまう。意味を持っていなければまだいいんだけれども、意味を持っているからこそ現代人はシャッターを降ろしてしまう。その意味でも、母音を伸ばさないことによって、単位時間あたりに観客に入っていく情報量が増えますので、わかりやすくなっていくと思っているんです。
(つづく)