●「わかる」能
 基本的に、今回は能の謡曲本をまったく読んだことがないような観客に向けて作っています。能の持っている優れている点を抽出して、現代を生きている人間の速度感にそぐうように表現できないだろうか、ということですね。能の手法が確立した時代と現代とでは、人間の身体のおかれている状況が全く変わってしまった。だから手法はまねようとは思いません。ですが、これはウェーリーや平川さんが言っているように、世界の演劇からみて能には特異なよさがある。それをうまく抽出したいな、と思っています。それと、実はさらに裏ワザがありまして、どうしてもわからないところには、字幕を出すことにしています。
●「夢幻能」とは
 夢幻能というのは、人生で非常にインパクトのある体験――平川さんは危機的な瞬間と言っていますが、その危機的な体験をした主人公の魂魄がまだこの世にとどまっていて、普通の人間であるワキの前に現れる。この夢幻能の構造が何故面白いかというと、舞台上で開陳される世界が、幽霊であるシテの頭の中、心の中といってもいいでしょうけれど、それがまるで展開図のように舞台一杯に広げられていくというところです。夢幻能には、ヨーロッパ的な甲対乙の関係があるわけではありません。むしろ舞台にいるほんとうの登場人物はシテだけであって、ワキはシテが自分の内部を舞台にさらけ出すための触媒として機能しているだけなんですね。つまりワキというのはある意味司会者のような存在で、一人芸の芸人に、「さあ、演じていただきましょう」と言うような存在なんです。
●現代的な「夢幻能」
 その、たった一人のシテの中にある世界が、舞台上に展開図として開陳されてくる、というのは、考えようによっては、現代演劇の中でも最も現代的な演劇に似ている。たとえばベケットのような芝居ですね。
 近代以降では、この世界というのはどこまでいってもその一人の人間が見た世界でしかない。どういう人物の口を借りて描こうが、結局作者という人間の中にある世界が開陳されるにすぎない。しかし近代以前の劇作家であれば、必ずしもそうではないんですね。なぜなら「個人」という考え方がない時代には、たとえば「村人」というような、共同体の構成員という集合があって、そこに所属している語り手が「村人」という全体の蛇口のようになってしゃべる、そのことが不可能ではなかったんですね。そういう考え方を誰も変だと思わなかった。だから近代以前の劇作家は、「女というものはこうだ」「世界はこうだ」という話を、それはきみの主観だろう、というツッコミを入れられずに書くことができたんですね。なるほどそうらしいぞ、と観客は考えてくれたから、たとえば「早起きは三文の得」といった、ことわざみたいなものとして劇作が行われ得た。
 ところが近代になると個人というものが枠組みとして出てきてしまうので、「僕は『早起きは三文の得』だと思う」というような枠ができてしまう。すると「女というもの」「世界というもの」というようなことを語ろうとしても、その人の中にある「女」「世界」でしょう、ということになってしまう。そして芸術は個人というものの中に閉じ込められていってしまった。例外として、非常にコマーシャルなもの、みんなが喜ぶようなもので「個人」が消えているものもありますけれど、やはりふつう芸術と呼ばれるものにおいては、作者という人がいて、作者がどう考えるかという枠の中に入ってしまうわけですね。そうすると、劇の中の登場人物は結局のところすべてが作者の分身、アバターということになってしまう。そのことを露骨に示した、ベケットの「しあわせな日々」のような芝居もあります。わざとそれを一人の頭の中の妄想というかたち露呈させていく、他者というものは結局自分の頭の中で作られている幻影のようなものである、というふうな。こういう現代劇のあり方と、能のあり方が似ているんですね。ですから、能というものは現代の最先端の演劇と共振するものがある、響きあうものがあると思うんです。